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パッピーバースデェイ

11/27今日は福パパこと章二さん・・・・夫の誕生日です。
家族でお祝いしました。♡

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ありがたいことです。本当に・・・こころに温かいものが溢れます。

9/20に最愛の母が亡くなって・・・とうとう・・・両方の親を見送りました。

そんな今日・・パパが書いていた文章を私の親友が誤字を直しつつ打ち込んでくれました・・・。

その文章を添付していただいたときに添えてくれた親友の文章をここに・・・。





章二さん、お誕生日おめでとういございます。

きっとお母様もお父様も、その場所にみえてますよ。

この世の人やあの世の人がみんなあなたの誕生日を
心からお祝いしていることと思います。

幸子さんが、章二さんの書いた文章を見せてくださいました。
わたしは、けっこう人の文章をまとめたりするのは好きなので、
見せていただき、少しだけ、手を入れました。

中には、付け加えすぎたところもあるかもしれません。
お気に召さないときには、どうぞ、元に戻してくださいね。

自分では誤字等にきがつかないので、娘にも読んでもらいました。
涙を流しながら、『いい文章だね~~」と感想を言ってました。

もし、今日がお誕生日でなかったら、こんなに早くできあがらなかった
かもしれません。

お母様に感謝です。ありがとうございました。
では、わたしも今夜はうちで、飲むことにしましょうね。
(って実はもう、飲んでますが)

ではでは
   ご家族で、よい時間をお過ごしくださいね。



・・・・・福パパの綴った文章です。・・・・・


言えた言葉

 最愛の母が、先日 肝臓がんで亡くなりました。

 思えば、二十歳で家を出て、大学・就職と都会に出て、今年四十六になるまで、何一つ
親孝行らしいことをしてなかったような気がします。

 思いがけない転勤で、十八年前に福岡市に帰ることができ、実家は北九州市でしたので、時折家族で実家へ帰り、孫の顔を見せに行っていました。

 父は二十年前に他界し、実家で母と祖母が二人で生活していました。その祖母も七年前に他界し、それから母は一人で暮らしていました。 とはいっても、元来、気丈で明るい性格のうえ、おかげさまで、ご近所の方々や老人会・大好きなカラオケの仲間との交流・下手の横好き(?)のパチンコと日々楽しく生活させていただいていました。
私も家内も少し離れた所に住みながら、ひとまずは安心して生活しておりました。

 父が亡くなり、そののち、一人になってからは、元々お酒好きな母でしたが、ここ数年は朝からお酒を飲む毎日がつづいていました。

私も家内も
「年なんだから、お酒の量を少し減らした方がいいよ。」

「飲みすぎると、後々体がきつくなるよ。」と、会うたびに言っていましたが、
「いいとよ。(よいのだよ)あたしは、父さんもバアさんも看取ったし、好きな酒で死んでも構わん。はよー(早く)父さんのところに行きたかー(行きたい)でも、父さん、天国で若い娘と楽しくしとらんか、心配やねー。」

「そうたい、だから、母さんが早く天国に来たら、親父も困るから、体を大切にせんといかんよ。」

「ハイハイ。」・・・と言いながら、いつもニコニコして、お酒を飲んでいました。

そんな中、七・八年前から、田舎のかかりつけの病院に時々短期入院しては、アルコール抜きの治療をし、退院、また、入院と繰り返しの毎日を過ごしていました。
そのかかりつけのお医者様から、どうも、肝臓のところに気になる影が出ているので、一度大きな病院で検査してください。と言われました。
四年前のことでした。早速、私たちの住まいのある福岡市の大学病院で検査してもらいました。

「章二、大丈夫かね。私はどうも、気が進まんよ。」

「大丈夫。ちゃんと治療してもらえば、良くなるから。今なら、ほんの小さな影だから。」

 大学病院での検査の結果は、やはりガンでした。
しかも、母の場合は、長年の飲酒で肝臓自体の機能がかなり低下しており、完治は難しいとのことでした。
しかし、高齢のため、ガンの進行もおそく、今すぐ重篤な事態になることはないと言われ、半分は心配で半分は、まだまだ大丈夫、と思っていました。

 そのころ、母の生活そのものは、北九州市でしたので、家内は北九州市と福岡市を往復して、母のために一人暮らしの広い家(私の生家です)をかたづけ、母の世話をし、身の回りの買い物などをすませる・・・といったことをしていました。
私よりも忙しい仕事を持ちながら、少しの時間を見つけては、せっせと通い続けていました。

家内も「お母さん、一人暮らしは何かと大変だから、私たちの家に来て、一緒にくらしませんか?」と誘いかけてはみたのですが、
「いや、私も嫁と姑で苦労してきたから、幸子とも一緒に暮らして、いろいろと分かって、そんな関係になりたくないから、まだ、ここで暮らすよ。それにここには、友達もたくさん、おるけんね。(いるからね)」

私も家内もそんな母の気持ちを尊重し、北九州での一人暮らしを見守っておりました。

 しかし、確実にガンは進行し、肝機能の低下は進んでおり、大学病院の入退院の回数も増えてきました。母の一人暮らしをそろそろ終わらせて、私達の家に連れて来ようと、家内と相談して、家を改築し、母のために部屋を造り、家具をそろえ、準備していました。

 最後の半年になって、大学病院の先生から、母の治療が肝機能の低下でこれ以上はできない、と言われました。私と家内は、できるなら、母がつらい治療や制約から離れて、楽しい日々を過ごせるほうが良いと考えました。
それから、緩和ケア(ホスピス)の病院をネットや書物で調べたり、実際に何軒もの病院を訪ねたりして、結局、家からあまり離れていないところにある病院に入れるように手続きを行い、入院させることにしました。
 そこは、清潔感にあふれ、先生や看護士の方々もとても優しく、なにより母がとても気に入り、

「章二、この病院は皆、優しく、居心地がよいね。私は、あと十年はここに居たいね。」

「そーね。よかったね。ここは、外泊も自由だから、週末には俺の家に来て、みんなで楽しく過ごそうや。仕事帰りにも毎日来て、顔も見れるし、本当に良かったね。」などと話し、そのとおり、週末は我が家で過ごし、楽しく暮らしていました。

入院して、一ヵ月半過ぎたころ、元々病気のために足が象のように腫れていましたが、腹水も溜まり始めて、確実に肝機能の低下は進んでいました。

 私は、家内と相談して、近い身内に連絡を取り、意識のあるうちに、親戚・兄弟を呼び、会わせてあげようと思いました。

「最近、親戚やら姉が来てくれて、うれしいね。久しぶりに姉ちゃんの顔が見れたよ。楽しいね。ありがたいね。」  屈託なく笑う母に

「入院も落ち着いたから、皆が来てくれたとよ。元気になったら、カラオケや旅行もしようね。」と、はげましの言葉をかけました。  

 家内も少しの時間をつくっては、毎日・・・時には何度も病院に行き、腫れた体をさすっては、看病していました。

 徐々に意識が薄れていく母。でもまだ、きっと大丈夫、と祈る日々が続いていました。が、別れの日は確実にそこまで来ていました。
家内から
「パパ、お母さんの意識、あと二・三日だと思う。最後にお母さんに『産んでくれてありがとう』って言ってね。」と言われました。
今まで、面と向かって、照れくささもあり、言ったことがなかったけれど、残された時間にかぎりがあり、お袋もいなくなるかもしれないと言う事実が目の前にありました。
そして、このときになって思い出されるのは、子どものころ、病気をして、一晩中看病してもらったことや運動会や遠足のときの弁当がとても美味しかった事、授業参観のときに母が一番綺麗で子ども心に誇らしかった事・・・。
本当に母は、私に対して、与えて、与えて与え続けてくれた事に感謝の念で魂が打ち震えた思いがしました。
 次の日、会社帰りに病院に寄り、もう起き上がることができなくなった母と二人で話しておりました。
帰り際に、母の顔をさすり、目を見ていると、心の底から今まで感じたことのない感情・・・愛情があふれてきて、そして、素直に言えました。

「母ちゃん。俺、母ちゃんの子でよかった。・・・母ちゃん、産んでくれてありがとう。」

母の目からも涙がこぼれてきました。互いに手を握り合いながら、母が
「章二、あんたが、わたしの子でよかった。生まれてきてくれてありがとう。」

今度は私の目からも涙がどっと溢れ出しました。
体全体が腫れていて、まるで、菩薩様のような顔、頭。体・・と順に撫でて、その夜は帰りました。
そして、その日を境に母の意識は無くなっていきました。

 次の日は、東京から兄がかけつけ、病院で看病をしてくれましたが、母の意識はほとんどなく、ただ、寝ているだけでした。時折、激しい痛みで目を見開き、「ウーウー」と唸り、その都度、薬を使って、眠らせる・・その繰り返しでした。

 子どもとして、母親の苦しむ姿は見たくない、けれでも、母は確かにまだ生きている・・・何ともやるせない思いが流れていきました。

 亡くなる当日、兄と家内と私の三人で病院にいましたが、家の用意をするために、いったん家内と二人で家にもどりました。
用事をすませていたときに、兄から携帯電話で
「章二、今すぐに病院に来い。今なら間に合うかもしれん。」病状が急変した報せでした。とにかく、車に乗り、急ぎ病院へ。

「お袋は、最後の最後に痛みの中で、自分を待ってくれて、間に合うかも・・」震える体で車に乗り込みました。
そのときに家内が、言い始めました。まるで、目の前の母に語りかけるように。
「お母さん、もういいよ。もういいよ。苦しいんだから、がんばらなくていいよ。お母さん、もういいよ、ありがとう。」
私も家内同様に
「お袋、もういいよ、らくになって。ありがとう。お袋、ありがとう。」

 一分後に兄から電話が入り、
「今、亡くなった。最後はスーッと、とても安らかに亡くなったぞ。」と涙声で連絡がありました。

病院へ着き、本当に菩薩さまのような顔の母と会い、家内と二人で泣きながら、体・頭そして顔と撫でて、

「ありがとう、ありがとう、ありがとう・・・・ありがとう・・・」今、まさに仏となった母に感謝の念を送り続けていました。

 それから、葬儀の手配・親類・知人への連絡等、あわただしい時が過ぎました。無事に葬儀を終えて、四十九日の法要も済ませたこのごろです。
 
 思えば、離れた実家の母の世話、二度の引越し(実家からひとりぐらしのマンションへ、マンションから福岡へ)老人保健・介護保険などなど役所関係の手続き、我が家の増改築、母の迎え入れ、病院の手配、そして看護と家内一人にまかせっきりで、それでも愚痴一つ言わず、実の娘でもああはできないだろうと思えるようなことをただ、もくもくとしてくれた家内には、心から感謝しております。 
 その家内が
「お義母さんは、私の生きがいだった。亡くなって、心にひとつポカーンと穴が開いたみたい。」と。寂しそうに言っていました。

 思えば、家内とは、不思議な縁で結ばれていて、お互いに別々の市で生まれ育ち、高校で初めて一緒の学校に通うようになりました。その後、何年かののち、結婚をし、今にいたっております。

結婚した時に初めて私の実家のお墓参りをしたときに、家内の生家の墓と隣同士であったことがわかり、ビックリいたしました。そのときに、何か目に見えない大きな力や意志の中で、生活させていただいている事を実感いたしました。

 今日も家内は、忙しい中、仏壇に、お茶・お花それと母の好物をお供えしてくれています。

その姿を 朝日に輝く母が微笑み、見ており、今日も一日が始まります。

by u-on358 | 2008-11-27 22:08 | マイライフ | Comments(2)

Commented by knittman at 2008-11-29 00:43
こんばんは、ここで御便りを送るのは 初めてです。
 
昨日は ケーキ美味しかったね....。 (*´- ω - `*)
誕生会の時間は 年々 みんな、段々短くなっていってるような気がして
(まぁ でも、みんな何らかの都合もあるか...。) 少し微妙だけど....。
お手紙を見て想うけど、本当、石川先生 いいひとだよねぇ...。
(*^ ω ^*)
 
 
しかし...、今 ここで父さんの書いた手紙を読んで、改めて想うなぁ...。
おばあちゃんのこと...。 ボクは 何もできていなかったような気がする...。
これから、また 仏壇に祈らなくちゃ...。
 
 
Commented by u-on358 at 2008-12-24 22:13
knittman・・・♪

いろいろ毎日がありがたいね。
ひとつひとつ大事にしょうね・・・・。
誕生会は・・・いいものね。